万年筆小説『メディコ・ペンナ』の感想

蓮見恭子さんの小説『メディコ・ペンナ 万年筆よろず相談』を読んでみました。

メディコ・ペンナ

万年筆をテーマにした小説で、ペン先調整士の店長がアルバイトの女子大生とともに、顧客から持ち込まれるさまざまなトラブルを解決していくストーリーです。

作品のなかには、思った以上にたくさんの万年筆が登場していました。
ほとんど文具の解説本と言ってもいいくらいの詳しさながら、万年筆を介した人々の喜怒哀楽が散りばめられていて共感を覚えました。

憧れの万年筆を手に入れて夢をかなえる女性もいれば、コレクションに溺れて身を滅ぼす男性も出てきます。
商品を売る側としては語れないような万年筆収集の闇も描かれていて、いろいろ考えさせられました。

『メディコ・ペンナ』はデング熱ならぬブング熱という感染症を媒介する書物です。
これを読めば、欲しいペンを買うのに背中を押してくれるかもしれません。

一方すでに万年筆依存症のかたにとっては、解毒剤になってくれる可能性もあります。
新たな生活に向けて、コレクションを手放す覚悟ができるかも…

ついでに神戸の聖地めぐりもしてみたので、小説に出てくる元町周辺の飲食店や、モデルとなった文具店もご紹介します。

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本作に出てくる万年筆

『メディコ・ペンナ』に出てくる万年筆をリストアップしてみました。
小説のなかで登場・言及される順番に、メーカーとモデル名を並べています。

  • パイロット カクノ
  • モンブラン マイスターシュテック146、149、145、114
  • プラチナ プレピー
  • プラチナ #3776センチュリー(シュノンソーホワイト、ニース・リラ)
  • ペリカン トータスシェルブラウン(復刻版とオリジナル101N)
  • ペリカン M1000緑光(螺鈿)
  • ペリカン スーベレーンM400(トータスシェルレッド)
  • ラミー サファリ(赤)
  • アウロラ オプティマ(バーガンディ)
  • アウロラ オセアニア(大陸シリーズの5番目)
  • デルタ ドルチェビータ
  • フルハンターの森山さんが調整したペリカン
  • セーラー 創業80周年記念ブライヤー
  • パイロット シルバーン
  • ラミー サファリ(2018年限定のオールブラック)
  • ペリカン M600ヴァイブラントオレンジ
  • パイロット カスタムヘリテイジ92(オレンジ色・廃番)
  • モンブラン 作家シリーズ(フリードリッヒ・シラー)
  • ウォーターマン エドソン(サファイアブルー)
  • ペリカン ペリカーノジュニア(左利き用)

社名や人名もトリビア満載

そのほか具体的な製品名は出ていないものの、「セルロイド製のペリカン」「古いモデルのパーカー」などヴィンテージコーナーの陳列品として紹介される万年筆もあります。
また「フルハンターの森山さんが調整したペリカン」「長刀研ぎを再現させたセーラー万年筆の長原宣義さん」など、業界の有名人も実名で言及されていたりします。

ちなみに主人公が就活で面接を受ける企業の名前が「並木工業株式会社」で、パイロットの前身「並木製作所」をもじっていると思われます。
作中に出てくる「フカミ貿易」という社名も何か由来がありそうですし、店長が話していた「台湾にいる熱心なモンブランコレクターの女性」というのも、元ネタがあったりするのでしょうか?
万年筆業界に詳しいかたなら、いろんなトリックに気づけて楽しめるかもしれません。

万年筆用のインクについても、パイロット色彩雫の躑躅~山葡萄からKobe INK物語の六甲グリーン~居留地セピア、カランダッシュなどいくつか紹介されています。
顔料インクのメリット・デメリット、使用場面に合わせたインクの選び方など万年筆関連のチュートリアルも満載です。

文具がテーマの小説とは知りつつも、ここまで多彩な商品が紹介されているとは予想していませんでした。
数ページごとに新しい筆記具が出てきて、高密度の万年筆トークが展開されています。
上記のリストに自分の持っている万年筆や、これから買いたい気になっているモデルがあれば、それぞれの立ち位置や業界での評判がわかって勉強になると思います。

またペン先にインクが供給される仕組みや、万年筆が発明された歴史などのうんちくも、調整士の店主によって事細かに説明されます。
小説のなかで技術的な解説が続くと不自然になりそうですが、アルバイトの女の子に対するレクチャーという形式をとっているため、違和感なく読み進められました。

登場人物が選んだ万年筆

小説の主要な登場人物と、彼/彼女らが選んだ万年筆を整理してみると、

  • 野並砂羽:モンブラン146→新たな万年筆を探す(未定)
  • 山口美海:カクノ→プラチナ#3776センチュリー(ニース・リラ)
  • 橋口博子:プレピー3種→アウロラ(オセアニア)
  • 桂木さん:LAMYサファリ限定オールブラック→シルバーン
  • 四方純:モンブラン作家シリーズ(フリードリッヒ・シラー)
  • 寺田怜人の父:ウォーターマン エドソン(長刀研ぎカスタム)
  • 寺田怜人:エドソン→ペリカーノジュニア(左利き用)

女性キャラは20~30代と若く、安価なスチールペンからステップアップして「初めて金ペンを買う」という、おいしいタイミングで出てきます。
長い万年筆ライフのなかで数万円の高価なペンをついに購入する、不安と期待が入り混じった時期ではないでしょうか。

いかにも女の子らしくピンク色の万年筆にピンクのインクを入れるという学生もいれば、クールなLAMYからスタートして、渋いスターリングシルバーの軸に興味を持つ編集者も登場します。

一方で男性陣は大成した作家(あるいは売れない小説家)という位置づけが多く、大御所らしい高級万年筆を使いこなす様子が描かれます。

たとえば流行のSF作家がサイン会に使っているのは、モンブランの作家シリーズのなかでも意外と地味なフリードリッヒ・シラー。
「オレンジ色の万年筆」を見たという謎かけから始まって、デルタやペリカンを連想しつつ、サインに添えられたドイツ語のメッセージ(ベートーヴェン第九の歌詞)からシラーを突き止めるという、ミステリー要素もありました。

その人に相応しい万年筆

『メディコ・ペンナ』を読んでいておもしろいのは、お店を訪れる客の性格や状況に合わせて、調整士の店主(冬木透馬)が最適な万年筆を見立てるところです。
調整のかたわら「万年筆よろず相談」と名乗ってカウンセラーのような役目も果たしつつ、探偵のような謎解きや推理も披露するところスリルがあります。

「ここであの万年筆を出してくるのか!」
「なるほど、この万年筆はこういうキャラに似合うのか」

といった発見があって楽しめました。

アウロラ・アルファのペン先

使い込まれた万年筆には、オーナーの好みや書き癖、仕事の内容からライフスタイルのようなものが反映されているようです。
ペン先調整と店主との会話を通じて、顧客が自己実現や問題解決のヒントを得るというストーリーにおもしろさを感じました。

万年筆には、人の生き方を変える力がある

メディコ・ペンナがうたっている「あなたの人生が変わります」というキャッチコピーは、万年筆を買う人の心理をうまくとらえていると思います。
高価な文具が欲しくなるときは、必要にせまられてというより、なにか「人生を変えたい」「現状を改善したい」といったスピリチュアルな動機があるのではないでしょうか。

小説では「でも、いつか…、いつか、こういった万年筆を持てるような自分になりたい」と願ってプロになる目標を達成し、憧れのアウロラ・オセアニアを手に入れる同人作家が出てきます。
その反対に、「菱田さんにとって万年筆とは、ただの物ではなかった。彼の心を支える防波堤のような物だった」と現実逃避のため文具収集に溺れるコレクターも登場します。

アウロラ

ペン先の状態から過去の経緯を推測しつつ、その人に合った万年筆を提供して、お客さん自ら気づきを得る…

ここに出てくる筆記具は、実用品というよりパワーストーンのようなものかもしれません。
実際ペリカンの製品で宝石の名前がテーマになっているのも、運気アップや願掛け、癒しといったニーズを意識しているように思われます。

筆記具のメンテナンスという技術的なサービス以外にも、人生相談を交えた万年筆ソムリエ、万年筆カウンセラーといった職能には需要がありそうです。
ペン先と同時に、心の調整もしてくれるドクターがいたらありがたいですね。

最後はあの万年筆

この小説では仕事柄、万年筆を使うであろう職業として、小説家を中心に校閲記者、編集者、画家、大学教授や弁護士といった職業の人が登場します。
世間一般のイメージとして、今でも万年筆といえば作家や小説家が連想されるのかもしれません。

志賀直哉旧居に展示されている万年筆
奈良の志賀直哉旧居に展示されている万年筆

最終話に出てくるウォーターマンのエドソンは、病気で握力を失った高名な小説家が、太軸重量級の軸に長刀研ぎのペン先を接合させるという魔改造アイテムでした。

物語が進むごとに出てくる万年筆の価格とスペックがどんどんインフレしていって、最後はいったいどんな際物が出てくるのかワクワクしながら読みました。
(たとえば肉合研出蒔絵の沈金石目塗にパイロット50号オーバーサイズのプラチナ合金クロスコンコルドニブとか…)

ところが高飛車な若手作家が親譲りのカスタムエドソンを手放して選んだのは、左利き用のペリカーノジュニア。
価格も安い、子ども向けのスチールペンだったのは驚きの結末でした。

その昔、ロマンシングサガというRPGに出てきた最強の片手剣が「レフトハンドソード」だったのを思い出します。
名前は地味ながら左利き設定のキャラに持たせると攻撃力がアップして、攻略に便利な固有技も手に入るという設定になっていました。

「万年筆はブランドや希少性よりも、その人に合った使いやすさがいちばん大事」という、作者からのメッセージとも受け取れます。
万年筆といえば高価な金ペンや吸入式がスタンダードと思われがちな風潮もありますが、作中でカクノやプレピーといった鉄ニブの良品も取り上げられているのは公平でよかったです。

万年筆コレクターの生態

『メディコ・ペンナ』を読んで衝撃を受けたのは、初々しい万年筆ビギナーの女性陣に対して、文具愛好家の男性キャラがやけに気色悪く描かれていることです。

たとえば第三話では、情緒不安定な万年筆依存症のコレクターが登場します。

この菱田さんは病的な収集家で、借金してまで高価な限定品を買い漁っています。
その挙句、家族に万年筆を大量処分され、鬱状態で各店舗の売り場を徘徊する廃人のようになってしまいます。(いちおう最後は反省して更生するエピソードあり)

店長の回想では、コレクションを手放した客のなかには自死を選んだ人もいた…という暗い話も出てきて、不気味なリアリティーを感じます。
我ながら最近万年筆収集にはまりつつも、「ここまでいったらヤバい」と危機感を覚えて、いい薬になりました。

五話ではお金持ちの二世作家、寺田怜人が店を訪れては、アルバイトの女子大生にカスハラを繰り返します。

実はこの男性も主人公の女の子も「親に対するコンプレックス」が共通の背景となっていて、父から贈られた(奪った)高級万年筆から解放されて自由になるというストーリーが描かれます。
新しいものを買うのではなく、因縁の万年筆を諦めることで先に進める…という人物も出てきたのは印象的でした。

「人から筆記具をプレゼントされたけど、全然使ってなくて申し訳ない」というかたも多いのではないでしょうか。
自分は安いペンで十分とか、デザインが趣味に合わないといった事情もあると思います。

さいわい高級ペンは中古売却できるので、断捨離して気持ちをすっきりしたうえ、必要な人に役立ててもらうと思えば、良い気分になれるかもしれません。
まさに万年筆はそれを手放すことによっても、人の生き方を変える力があると言えます。

文具マニアへの警告

店長や万年筆画家、多和田さんの女性に対するセリフも、いちいち上から目線で癇に障ります。

「凄いのを持ってるね…」
(大学生の分際でマイスターシュテック?)

「初心者で、いきなりアウロラですか?」
(しかもオプティマより高い18Kの限定品とは…)

こういったさりげない会話の端々から、モンブランが特別な(とりわけ高い)ブランドであり、アウロラは玄人好み(素人には扱いにくい)とみなされていることがわかります。

モンブラン

文具卸店の池谷隼人も、外見は比較的まともそうなのに、女性客そっちのけで店長とマニアトークを始めてしまいます。
そのうえ初心者の女の子に自分のコレクションを自慢して、ついマウントを取ってしまうという情けなさ…

まだまだ甘いね。砂羽ちゃんは。僕は三百本持ってるけど、それでもオフ会では小僧扱いさっ

池谷さんがたびたびお店に現れて万年筆選びに絡んでくるくだりは、『めぞん一刻』の四谷さんのようでツボにはまりました。
営業担当の給与がそんなにあるとも思えず、高価な限定品やアンティークにばかり興味を示す池谷さんの財源が謎です。

この小説の作者は女性なので、何となく文具女子勢から見た男性マニアのイメージが、作品のなかに垣間見える気がします
初めて万年筆を買う人にアドバイスするとか、人の持っているペンを褒めるというのは、ありがちなシチュエーションですが、自慢や自説を語りすぎないよう気をつけようと思いました。

文房具を集めてしまう心理

池谷さんの万年筆300本コレクションというのは異常に見えますが、文具業界やマニアの界隈ではまだまだ序の口なのでしょうか。

インク交換やペン先洗浄が大変そうですし、外箱も含めて収納場所に悩まされそうです。
実際のところ、すべての価値ある万年筆をローテーションしながら使い続けるのも困難では…?

使われない道具ほど可哀想なものはないと思うな。僕は……。

お店側としてはどんどん万年筆を買ってもらったほうが儲かるはずですが、調整士としてはせっかくメンテしたペンを長く使ってほしいという、店主のジレンマがうかがえます。

あらためて考えると、文房具収集というのは不健全で倒錯した趣味に思われます。
1本数万円もするペンを買うなんて、たいていの人には信じられない浪費でしょう。
世間体もよくないですし、家族からひんしゅくを買うこと間違いなしです。

受験や資格勉強でもなければ、日常生活でそんなに大量の筆記具は必要ありません。
せいぜい粗品でもらったボールペンか、100均で売られているもので十分間に合います。
書きやすさやインクの安さという実用的・経済的価値で万年筆を評価するとしても、実際は鉄ニブのプラスチックペン(小説にも出てくるプレピーやカクノ)で満足できる気がします。

コレクターが文具を何百本も買い集めるのは、単に気分転換したいとか刺激が欲しいだけなのかもしれません。
車や自転車のように場所を取らず、趣味のアイテムとしては比較的安価なため、ついつい買いすぎてヘドニック・トレッドミルに陥りやすいよう傾向があります。

「上がりの一本」「良いものを長く使う」と覚悟して高級品を買ったつもりが、気がつけばさらに高価なペンがどんどん増えていたとか…
量産品のシャーペン・ボールペンにおいても、新製品や限定モデルが出るたび全色・全種類集めてしまう人がいるのではないでしょうか。

万年筆はほかの筆記具よりペン種や素材、メーカー、デザインの選択肢が多く、個体差やコンディションによる書き味の変化も含めて無数のバリエーションが存在します。
さらにインクと紙の相性まで考えはじめると、どこまでものめり込むことができる危険な底なし沼です。

片岡義男さんくらい有名な作家であれば、仕事道具にとことんこだわるのも納得できるのですが…

こうした後ろめたさは重々承知したうえで、むしろその罪悪感から逃れるために万年筆を買ってしまうという悪循環があるのではないでしょうか?

まさに「酒を飲むのが恥ずかしいから、酒を飲む」という、『星の王子さま』に出てくる酒飲みの理屈です。
高い買い物をするたび、「自分へのご褒美」なのか懲罰なのかわからなくなります。

犬と万年筆

自己表現、投資対象としての万年筆

万年筆は腕時計と同じく顕示的消費の対象であり、財力やステータスを誇示する目的でも使われます。
選んだペンで自分の価値観やアイデンティティーを表現したいという、自己表現のツールにもなります。

道具に対するリテラシーが高まってくると、仕事の打ち合わせで相手が持っているペンや、道ですれ違う人が着けている時計が気になって仕方なくなります。
一目見ただけで価格やレア度の察しがつくので、人知れず心のなかで「勝った負けた」と一喜一憂してしまいます。

いちおう仕事道具としての体裁を保ちつつ、男性でも身に着けることが許される数少ないアクセサリーとして、筆記具と腕時計は定番アイテムです。

キングダムノートの運営会社がGMTという中古時計店も手掛けているのは、どちらも限定品やレアモデルが高値で取引され、中古品の仲介という同じビジネスモデルが通用するからでしょう。
万年筆もメカニカルウォッチも、実用品としてはすでに代替製品(ボールペンやクオーツ時計)が発明されているため、耐久性やコスパを度外視して価格が高騰しやすいのかもしれません。

近年は資産価値が認められて転売市場も拡大し、投資対象としても人気を博しています。
一部のブランドには、蒔絵や宝石で飾り立てられた万年筆や複雑機構の機械式時計で、億を超える商品も存在ます。
昨今のゴールドをはじめとした貴金属相場の急騰により、インフレヘッジに役立つ実物資産として金ペンを買い求める人も増えているとか…

最初は純粋に書き味の改善を求めていたはずが、いつの間にか軸の付加価値を追求していた…というパターンもありそうです。
快楽順応で刺激に慣れてしまうと、金ペンの樹脂軸定番モデルでは物足りなくなり、高価な限定品やアンティークを探しまわるようになってしまいます。

必要なのは万年筆じゃなかった

『メディコ・ペンナ』がおもしろかったのは、こうした万年筆への執着・依存という負の側面も的確に描写しているところです。
文具業界では「何をいまさら」「それを言っちゃあ、おしまいよ」というようなネガティブな話題にも、鋭く切り込んでいきます。

主人公の野並砂羽は、両親から離れたくて遠くの大学を選んだのに、卒業後も経済的な支援を期待しているという認知的不協和を抱えています。
親から贈られたのに使われていないモンブランがその心境を表していて、「僕には君が、まだ子供でいたいと思っているようにみえるんだけど」と店長に見透かされてしまいます。
「万年筆には、人の生き方を変える力がある」と認めつつも、「今、砂羽に必要なのは万年筆ではない」と甘えを突き放すことで、成長していく姿が描かれます。

収集家の菱田さんも、「僕に必要なのは万年筆じゃなかった。心穏やかに過ごせる環境だったんだ」と悟り、最後は愛蔵のコレクションを委託販売に預けます。
そして別の会社に再就職したうえ、奥さんとも別居して人間関係をやり直す道を選びます。

分不相応な高級筆記具が気になって仕方ないとき、本当に解決すべき問題は別にあるのではないでしょうか。
砂羽や菱田さんのように、いつかは現実に向き合う必要があるのでは…

自分の経験からしても、文具に執着するのはたいてい仕事がうまくいかなかったり、生活上のトラブルを抱えていた時期だった気がします。
そうしたストレスから逃れるため、オークションで掘り出し物探しに熱中していたような記憶があります。

いつかは菱田さんと同じくコレクションを手放すときがきて、やがては「万年筆にこだわっていたのもいい思い出だった」と振り返ることができたらいいなと思います。

<メディコ・ペンナ>を訪れた人達は、万年筆によって人生が変わるのではない。
本気で人生を変えたいと願い、足掻く者が辿り着く乗換駅のような場所なのだ。
訪れた時には既にその準備は整い、後は透馬が最後の一押しをして、入念に調整した万年筆と共に、彼らを次の目的地にへと送り出す役目を担うだけ——。

とはいえ高級文具の収集がいかに不健康だとしても、最終的に何にお金を使うかはその人の自由と考えられます。
アイドルの推し活などより文具オタクのほうが、案外知的でスマートな趣味に見えるかもしれません。

ICDでもDSMでも精神疾患の診断基準は結局のところ、その症状によって生活や仕事に支障をきたすかどうかです。
余剰資金で趣味を楽しみ、まわりに迷惑をかけない範囲であれば、好きな文具をじゃんじゃん買って経済をまわせばいいのでは…と開き直るのもありでしょう。

神戸の文具店情報

この小説は万年筆に関する話題のほか、神戸の地名や飲食店が多く取り上げられているのも特徴です。
元町にはモデルとなった万年筆店が実在しており、周辺グルメの情報も豊富で、ちょっとした観光ガイドとしても役立ちます。

神戸旅行のついでに訪ねてみた、現地の文具店や飲食店をいくつかご紹介します。

メディコ・ペンナのある場所

小説の舞台となる万年筆店は生田神社の北側、パールストリートの近くと説明されています。

砂羽と美海がはじめてお店を訪れる際、「韓国総領事館とNHKの間にある狭い筋…(パールストリートを超えて)そのまま真っすぐ」という描写から、メディコ・ペンナのある場所はこのあたりでないかと推測されます。

Googleマップを見ると、路地の奥には「メゾン・ド・スガ」という集合住宅があります。
小説のなかで「道が右にカーブして…その少し奥まったところ」と説明された場所には、ストリートビューで見ても普通の住宅しかなさそうでした。

北野の異人館街とも離れた場所なので、確かにここにレトロな洋館があったら驚くかもしれません。
それはあくまで小説のなかの話で、実際は周辺のマンション開発に取り残された地味な住宅街という感じです。

Pen and message.

メディコ・ペンナは架空のお店ですが、実在する神戸の万年筆店「Pen and message.」に取材協力を受けたと謝辞に書いてありました。
モデルとなった店舗は元町駅にほど近い、生田中学校の西側にあります。

Pen and message.

以前、神戸観光のついでに行ってみたことがあり、ちょうど別のお客さんが万年筆の調整をされている最中でした。

Pen and message.

ほかにもお店の方か常連客か数名いて、万年筆談義で盛り上がっていました。
小説と同様に委託販売のコーナーもあったりして、めずらしい輸入万年筆も展示されていました。

ペン&メッセージの店内は、まさに『メディコ・ペンナ』の雰囲気そのままでした。
いつかちゃんと予約して、ペン先調整のご相談にお伺いしてみたいと思います。

そういえば『メディコ・ペンナ』の小説を知ったのも、Pen and message.さんのXアカウントで投稿を見たのがきっかけでした。
作品の冒頭にも登場する神戸ペンショーに出展されていて、ブース紹介の写真にこの本が並んでいるのを見て興味を持ちました。

『メディコ・ペンナ』にはもうひとつ、N(ナガサワ)文具センターという有名店も登場します。
ここの高級文具コーナーも品揃えが豊富なので、神戸を訪れたらぜひ立ち寄りたい場所です。

ナガサワ文具センター

また小説には出てきませんが、元町駅の北側には590&Co.というニッチな文具店もあります。
「黒鉛」という店名のとおり鉛筆やシャープペンシルの販売が中心で、特に木軸ペンは作家さんの作品を多く扱われています。
店頭にはオンラインショップに出ていない掘り出し物も並んでいたりするので、神戸で定期的にチェックしておきたいお店のひとつです。

590&Co.

関西圏には万年筆を扱う店舗が多く、文具関連のイベントもたびたび開催されています。
小説に出てくるような文具コミュニティーで趣味の話ができたら盛り上がれそうです。
逆に文具依存症の人にとっては、誘惑が多くて危険なエリアかもしれません。

『メディコ・ペンナ』の聖地めぐり

『メディコ・ペンナ』に登場する元町~三宮周辺の飲食店をまとめてみました。
作中に出てくるメニューも併記してあります。

  • さんちかのゴディバでチョコレートドリンク
  • にしむら珈琲店
  • GREEN HOUSE(森カフェ)
  • エビアンのコーヒーゼリー
  • 元町サントスのホットケーキ
  • 南京町エストローヤルのシュークリーム
  • HANAZONO CAFEの桃パフェ、ミルフィーユとアイスティー
  • 元町駅東口のイスズベーカリー
  • 順徳の葱汁そば
  • 神戸森谷(もりや)のコロッケ
  • モダナークファームカフェ
  • 新装オープンしたモロゾフ神戸本店
    マスカルポーネクリームとミックスベリーのデザートワッフル

いずれも地元の女子大生がよく利用するお店、神戸出身の作家が紹介する穴場という感じで、流行りのカフェからレトロな喫茶店、定番のブランドなど幅広く取り上げられています。

そのほか万年筆の入れ物として、モロゾフのほかアンリ・シャルパンティエの紙袋も何度か登場します。
神戸発祥の洋菓子店は数多くありますが、この2店は紙袋のデザインが特徴的で、遠目からもわかりやすいという理由で選ばれたのではないかと思います。

神戸旅行のついでに、上記のお店をいくつか訪ねてみました。

元町サントス

元町商店街のアーケードのなかにある、萩原珈琲店のサントスでモーニングをいただきました。

元町サントス

作中で紹介されたホットケーキのほか、ピラフやサンドイッチなど喫茶店らしいメニューもそろっています。

元町サントス

モーニングはトーストとサンドウィッチの2種類あり、Aのトーストにはハムエッグとサラダ、フルーツもついてきます。

元町サントス

炭火焙煎でこだわりのコーヒーをじっくりいただきました。

元町サントス

店内はそれほど広くないですが、1階の奥の壁は鏡張りになっていて奥まで続いているように見えます。
緑色のビロードが張られた椅子は座面が低く、こじんまりした昭和のスケール感を堪能できます。
使い込まれた木のテーブルや床材、アンティークらしい照明もいい雰囲気を演出しています。

元町サントス

2024年にプラチナ万年筆から発売された「マイ・フェイバリット・シングス」第一弾のコーヒーゼリーは、まさに神戸のレトロ喫茶、元町サントスのようなお店にぴったりです。
落ち着いた赤色のボディと、珈琲カラーのキャップがバイカラーになっているためか、不思議とおっさん臭さを感じさせない渋さがあります。

カラバリ豊富な樹脂軸といえばセーラー万年筆の得意技。
プラチナはボディに彫刻がほどこされた富士山シリーズというイメージでしたが、今後はセンチュリーも色違いの限定品が増えていくのかもしれません。

にしむら珈琲店

元町サントスのすぐ近くに、作中で触れられている「にしむら珈琲店」もありました。

にしむら珈琲店

9時の開店前でしたが、ボリューム抜群の朝食セットをいただけるようです。
パンの具材はたっぷり、フルーツも山盛りで、一般的なモーニングよりかなり食べごたえがありそうです。

にしむら珈琲店

イスズベーカリー

元町のアーケード街を東に進んで鯉川筋に出ると、イスズベーカリーが見えてきます。
通勤ラッシュの時間帯、駅から出てくる人たちで通りは混雑していました。

イスズベーカリー

超ロング粗挽きソーセージをフランスパンで包んだ、トレロンというパンが気になります。
あいにく売り切れか、まだ焼き上がり前だったようで、ほかのパンを買って帰りました。

イスズベーカリー

チーズ入りのクロワッサン、ピロシキなど凝ったパンがいろいろ並んでいます。
ほかにも神戸牛入りのコロッケパンやカレーパンなど、揚げてあるパンが多いように感じました。

イスズベーカリーでもらったビニール袋は、神戸の観光名所がプリントされていておしゃれです。

イスズベーカリー

さんプラザ地下のベトナム料理

『メディコ・ペンナ』の第三話で、砂羽と美海がベトナム料理店で食事するシーンが描かれます。

店名は明かされていないのですが、三宮センター街の「さんプラザ」地下という情報をヒントに、それらしきお店を探してみました。

アーケードから階段を下りてみると、さんプラザ~センタープラザ~センタープラザ西館に連なる広大な地下街が広がっていました。
トアロードからフラワーロードまで東西に長く伸びる「さんセンタープラザ」の地下に、居酒屋からファストフード、各国料理の飲食店がひしめきあっています。

その中にベトナム料理店は3つもあったのですが、17時台と早めから開いていたHOI AN(ホイアン)に入ってみました。

ホイアン

ベトナム人と思しき店員さんは、ものすごく接客が丁寧で、何かお願いすると「かしこまりました」と返されて恐縮します。

333やサイゴン・スペシャルなど、地元のベトナムビールもそろっています。

ホイアン

お料理のメニューは無数にあり、今回はバインミーとガパオライスが含まれるセットを注文してみました。
どちらもパクチーたっぷりで、鶏肉のフォーや生春巻きがついてくるのがうれしいです。
セット料理はボリュームもあり、特にバインミーのほうは食べごたえありました。

ホイアン

大学生が日常利用するのに、ホイアンは少々高級なお店だと思います。
小説のモデルになっていたのは、もっとリーズナブルな屋台風のベトナム料理屋だったのかもしれません。

ホイアン

こちらはガパオライスが含まれたセットメニューの写真です。
本格的な海外エスニック料理を手軽に食べられる神戸がうらやましいです。

万年筆の参考文献

『メディコ・ペンナ』の巻末に、万年筆関連の参考文献が掲載されています。

図版の豊富なムック本からブランドの解説、歴史の本まで、幅広くリサーチされたようです。
『趣味の文具箱』もvol.50と54が2冊挙げられていました。

以下は今でも手に入る参考書の一覧です。

このなかで自分が読んだことあるのは、伊東屋の『万年筆バイブル』くらいです。
ペンの機構やインクの特性など、初心者向けの入門書としては大いに役立ちました。

紹介されている本は比較的新しいものが多く、Amazonなどでもまだ手に入ります。
小説の次は詳しい専門書を読んで、万年筆への理解をさらに深めていきたいです。

続編に期待

主人公の野並砂羽が、疎遠な両親から押し付けられたモンブランを手放し、新たに手に入れる万年筆とは…?
結局それがわからないまま小説が終わったのは、少しさみしい気もしました。

砂羽ちゃんはここまで素晴らしい万年筆を見てきたので、自分用に選ぶのは既製品でなく、メーカーで自ら企画した一本とかだといいですね。
たとえば#3776センチュリー「マイ・フェイバリット・シングス」の新シリーズで、神戸元町のベトナム料理店をテーマにした商品とか…

主人公が大手文具メーカーに就職してから業界で奮闘する様子や、メディコ・ペンナを訪れる珍客、ライバル店の出現など、続編で取り上げてほしいエピソードを勝手に妄想してしまいます。

野並砂羽のその後

本作は万年筆以外の基本ストーリーとして主人公、野並砂羽の精神的成長がテーマとなっていました。

特にやりたいこともなく漫然と学生時代を過ごし、就職活動も失敗ばかり。
文具店でのアルバイトや客との出会いを通じて、本当にやりたいことを見つける…というシナリオはよかったのですが、最後が普通に就職して終わりというのは案外地味な印象を受けました。

もっとも、ほかの登場人物が作家や画家という変わった人ばかりなので、普通の女子大生を登場させてバランスをとる必要があったのかもしれません。
ただ主人公は法学部出身(父親も弁護士)という万年筆ネイティブな家系なので、第二部ではメーカーを退職して、究極の万年筆をたずさえ司法試験にトライ!…といった流れも考えられます。

そのほか文具業界で活躍する女子のイメージとしては、文具批評家やYouTuberとしてインフルエンサーになった後、雑誌でコラムを書いて書籍も出版、さらにメーカーとコラボして独自企画の筆記具をリリースするとかどうでしょうか。

あるいは店長の跡を継いで女流調整士を目指すとか、パイロットの平塚工場で蒔絵の修行を積み人間国宝に選ばれるとか、職人路線での発展を描くのもありだと思います。

ミステリー寄りの続編としては、砂羽が父と和解して一族に代々伝わる業物万年筆を譲り受けるといったアイデアも…
所有者が次々と不幸に見舞われるため封印されていたペンの謎を解き、透馬の調整(お祓い)によって先祖の魂を成仏させるなど、呪具・呪物としての万年筆廻戦を描いてもおもしろそうです。

万年筆ネタの宝庫といえる『メディコ・ペンナ』でも、まだまだ拾いきれないエピソードがあったのではないでしょうか。
野並砂羽や橋口博子のさらなる成長、番外編として山口美海の恋愛武勇伝、寺田怜人の回心と救済など、ぜひ続きも読んでみたいです。